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スペシャルインタビュー
イーソリューションズ株式会社
特別顧問 安藤 佳則
1981年、東京大学法学部を卒業後、三菱重工業に入社。
1990年、ハーバード・ビジネススクールにてMBAを取得後、92年、マッキンゼー・アンド・カンパニーに転職。1年でマネージャーに昇格。その後1994年にはエレクトロニック・データ・システムズ(EDS)取締役副社長に就任。1995年よりジャパンシステム取締役を兼任。
1999年、A.T.カーニーのヴァイスプレジデントに就任。同社日本代表、ノースアジア代表、アジアパシフィック代表を歴任。
現在、「チーム・マイナス6%」を提案し運営する、イーソリューションズ株式会社で特別顧問としてご活躍中。
安藤氏のこれまでのキャリア
『これまでの安藤さんのキャリアの概略を簡単に教えて下さい。』
1981年に東大法学部を卒業後、三菱重工に入って、当時、産業機械事業本部というのがあったのですが、印刷機械や工作機械だとか、射出成型機というプラスチックの型を作る機械ですとか、そういう類の物を作っていたところで仕事をしていました。92年まで三菱重工にいましたから、計11年間、主に印刷機械の輸出・海外市場の開拓を行っていました。具体的には、商社さんと一緒に海外市場で売り始めて、ある程度売れるようになったら、ほとんどはジョイントベンチャー形式が中心なのですが、現地で販売サービス会社を作って、そこに現地の人間を雇って営業するようにして、というような感じで、当時はアジアの一部と北米とヨーロッパの一部が主なマーケットで、マーケットディベロップメントみたいな仕事をしていました。
その後、92年に三菱重工を辞めて、マッキンゼーに行って、そこでたまたまいくつかの会社からお誘いを受けた訳ですが、僕自身はコンサルタントをずっとやろうと思っていた訳では必ずしも無くて、どちらかと言うとアメリカの会社の社長を一度やってみたいと思っていたので、その時お誘いを受けた3つの会社のうちの一つのEDSというシステムサービスの会社、今はHPのサービス部門になっていますが、そこに行くことにして、94年の11月から99年の3月末まで、EDSの日本法人でエグゼクティブヴァイスプレジデントをしていました。(日本法人には)当時は米国人の社長しかいなかったので、私はオペレーションの全般を担当していました。当時日本に無かったアウトソーシングという新しいタイプのビジネスに興味があったので、日本のマーケットと、アジアのマーケットで、特に当時アジアは金融危機(通貨危機)の前で非常に伸びていたこともあり、アジアに出ていっている日本企業のコントラクト(契約)を取っていくというようなことを行いながら、経営全般を行っていました。
そして、99年4月からA.T.カーニーというコンサルティング会社に誘われてコンサルティング業界に戻り、パートナーの一人として入って、その後たまたま日本のオフィスマネージャーをやって、それから日本と韓国と中国を含めた北アジアの代表や、インドとかオーストラリアとかも含めたアジアパシフィックのマネージングディレクターをやって、当時はグローバルをアジアと北米とヨーロッパに分けていたので、マネジメントコミッティーみたいなのにも入って、一応一通りやったのかなという感じです。
で、コンサル会社ってあまり年取った人が長くいるべき所ではないので(笑)、早めに辞めた方がいいだろうってことでイーソリューションズに来て、そして今またもう少し別の形で広がった仕事がしたいなと考えているところです。
『HBS(ハーバードビジネススクール)はいつ頃なのでしょうか?』
HBSは三菱重工時代の88年から90年までです。
『HBSの後、他社からの誘いもある中で、マッキンゼー、つまりコンサルを選んだ理由は何ですか。』
んー、次にやりたいことというのが必ずしもはっきりしていた訳ではなくて、10年以上印刷機械をやっていましたから、海外の印刷機械業界や印刷業界などの僕が活動していたところではそれなりに名前を知っていてもらっていたので、その業界でずっとやっていくっていう選択肢もあったし、当然三菱重工業でずっとやっていくっていうのもありました。しかし、ありはしたんだけれども、んー、そうだな、何か自分を変えていくっていうことをいつもしていないと止まってしまいがちな人間なものだから、中だるみの10年みたいなのは嫌だったし、自分がその時にその業界だとか会社の中で持っていたものというのは、本当にそれ以外のところでも通用するのか?という疑問があったし、そういうものを、年をとる前に一度試してみたいという思いがあって、会社には大変申し訳ないことをさせていただいたのですが、一回コンサルティング会社に行きました。
もともとITというものには興味があって、その理由は、印刷物っていうのは情報を伝えていく媒体なのですが、情報伝達のコストっていうのは歴史的に見ていくとどんどん下がってきているんですね。当時は紙のメディアに取って代わる磁気メディアという物がだんだん生まれてきていているところでしたので、これによりコストが大きく下がっていくことを考えると、せっかくこれまで印刷という情報伝達に縁がありましたから、この新しい情報伝達のメディアに触れてみたいなという思いがありました。なので、マッキンゼーでもコンピューターインダストリープラクティスというのを東京のオフィスに作るときに、最初のメンバーに入るなどもしましたね。こうしてみると、最初にコンサルを選んだのは一種のモラトリアムみたいなものですかね。こういうことを言うと怒られるかもしれないですが。(笑)
そういうものとして、一回コンサルティングを選んでやってみたという感じですね。
『マッキンゼーには2年程いらっしゃって、次の話が来たから移られた?』
そうですね。マッキンゼーには、2年と9ヶ月いましたね。2年目にマネージャーにしていただいて、
『早いですね。』
年取ってたからね。(笑)
『いやいや(笑)』
コンサルティングはコンサルティングでできるんだろうなぁって思ったし、またやりたければ戻れば良いと思ったし、当時戻ることは考えていなかったけど、まぁ結果的に戻ることになりましたけれども、コンサルティングというのが見えたような気もしたので、いいタイミングかなという思いもありましたね。
コンサルから事業会社への転職はタイミングとエッジを意識して身に付けることが重要
『今、我々も多くの方からご相談を受けているのですが、コンサルを一度経験してから事業会社のマネジメントに就きたいという方が非常に多いんですね。今実際にコンサルティングをやっている方で、事業会社に転職したいという方も多いです。しかし、実際はなかなかそんなにたくさんあるポジションじゃないですし、かつ、コンサルタントの経験者も増えていますので競争が厳しくなっていると思います。
それで、今そのような事業会社のマネジメントに就きたいと考えている方に、何かアドバイスをいただけませんでしょうか?』
んー、そうだなぁ、なかなか難しいんですけれども、コンサルティングを大学を出てからずっとやってきた人と、事業会社からコンサルティングに移った人と、若干違いがあるかなと思うんですよ。それは多分、リクルーティングをやっている人の方が詳しいと思うのですが、大学を出てコンサルティングをやるっていうのは、ある意味、特定のスキルに非常に長けた人材に育つのだけれど、事業会社で求められているのは必ずしも分析スキルだけの問題ではないですので、そういう意味では、もし事業会社に最終的に移りたいと考えるのであれば、例えば戦略系のコンサルティング会社の場合には、たぶんアソシエイトになるくらいで一度事業会社に移るか、そうじゃなければ、早くパートナーくらいまで行っちゃって、どこかへ移るかを考えないと、「絶対に行けない」とまでは言わないですが、移ることが出来るタイミングがあるのではないかという気はしています。
やっぱり採る側から考えると、あまりコンサルティングの時間ばかり長くて、しかも特定分野のスキルセットというのが必ずしも明確に見えない状態で、ただ地頭のいい人ですからっていうことで採用するのはだんだん難しくなってきます。そういうタイミングの問題があると思います。
事業会社から来た人っていうのは、当然時間の過ごし方によって違うサイクルになる訳ですけれども、自分の出身母体になっていたインダストリーにもう一回戻るということであれば、たぶんコンサルタントの経験というのが、バックグラウンドエクスペリエンス プラス コンサルティング能力ということで活きてくるでしょうし、そうでないものにスイッチしようと思っている人であれば、そこにある意味でいうと、エッジをどう作るか、っていうことが大事になってくるのかな、という気がしますよね。外資系企業であれば、コンサルティングファームのマネージャーになるかならないかというくらいの人達を、ビジネスディベロップメントで採用したいというケースは常にあるんだけれども、それほど大きなマーケットではありませんので、それを狙っていける人は狙っていけば良いでしょうし、そうでないとすれば、事業会社にフィットインするような何かエッジになるものを補強するように早くした方が良いのかな、という気がしますよね。
年齢的なものっていうのも全く制約が無い訳ではないので、あんまり年取っちゃうのも考え物ですよね。ですので、そういうエッジを意識しながら、自分で必ずしもプロジェクトのアサインメントを選べる訳ではないにしても、どこのコンサルティングファームにも何らかのプラクティスがあるでしょうから、インダストリーであれ、オペレーショナルなテーマであれ、エッジを意識して身に付けることを、日々のプロジェクトの中で考えていくことが、オーソドックに言えば重要ということですかね。
あとはムービンに早めに相談をする、ということですね。(笑)
『そうですね。(笑)そうしていただけると非常にありがたいですね。(笑)』
『先程、新卒の方がアソシエイトって仰いましたが、アソシエイトまで行くと仕事にも慣れて、一段落しちゃって、何となくそこにずっといちゃうんですよね。そして、マネージャーぐらいになられてからご相談にいらっしゃる。そうすると30から30半ばぐらいになっていて、コンサルティング一筋でやって来られて、なかなか潰しが利かないっていう・・・』
そうなんだろうね・・・
僕らの時代はビースクール(ビジネススクール)に行った人自体が割りと少なくて、外資系に移るっていうこと自体を考える人も非常に少なくて、一方で転職するとしたら、日本の企業はビースクールに行った人の窓口(採用枠)がほとんど無かったので、外資系の企業がもっぱら対象になる。
MBAを持っていて、ある程度プルーブ(prove)された状況、マネージャーに比較的早くなったとかであれば、「ちょうどマネージャーになり頃」というのは、比較的誘われやすいタイミングということが言えたんだと思うけれども、今はサプライサイドの方がどちらかと言うと数が多くて、外資もかなり出てきてはいるけれども、サプライサイドに対応できるほど数が増えているか、というとそうではない。そういう意味で言うと、たぶん僕らのときよりも厳しいのかもしれないな、という気がします。その分だけ早いタイミングがいいのかもしれない、という気がしますよね。
マッキンゼー、EDS、A.T.カーニーでの仕事
『なるほど、参考になります。
そのコンサルから移られたEDSで実際にどんなお仕事をされたのか教えていただけますか?』
EDSは、そのころはまだ日本ではあまり存在感が無い状態でした。しかも、サービスビジネスで海外に出て行くというのはそんなに簡単な話ではない。製品があれば製品は競争力があるから、必ず現地にディーラーができて、サービス部ができてという形になるけれども、サービスビジネスっていうのは、コンサルティング会社もそうですが、現地で実際にビジネスをディベロップしてサービスを提供して、ブランドを作っていくっていうのを完結させなければいけないので、ある意味で言うと営業しながら工場を作るみたいなところがあるということですよね。そこに難しさがありますので、そういう形で成功した物ってそうたくさんあるわけではない。で、僕は当時3社から声を掛けていただいたのですが、その中でEDS以外の2社は比較的有名な製品系の会社でしたので、EDSを選んだというのがあります。要は全部やらなくちゃいけないから選んだということですね。
米国の会社の日本法人という立場は、製品を持っている会社では、実質的には営業所みたいなものだから、機能的に製造部門とか研究開発だとかがある訳ではないし、権限的に非常に制約されたものがあると思います。今はもっとそうなのだけれども、当時も僕の目から見ていてそう思いました。今は、米国の会社の組織構造がずいぶん変わっちゃったので、もっとストレートに米国のそれぞれのビジネスラインの下の部門になっているような傾向があるのだけれども、当時のEDSには、日本側でディシジョンをして日本側で会社を自由に作っていける、そういう自由度が大きいところが良いなと思って選びました。
EDSは、それまではあんまりサービスという意味では上手くいっていなくて、ソフトウェア会社みたいな形のビジネスをやっていましたから、トランスフォーメーションが必要でした。売る物を変えて、お客を変える必要がありましたから、それに合わせて従業員を変えて、組織も変えないといけない。これらをビジネスディベロップメントをやりながら平行してやっていきました。リクルーティングもやりましたし、会社を買うこともやった。そういう一通りのことを全部やってみたかったというのも選んだ理由ですね。
『お話をお聞きしていると、基本的にチャレンジャーなんですね。』
やり直しができない年になって、何かやって転ぶよりはね。(笑)
『なるほど、早め早めに。(笑)』
そう。(笑)
やれるうちに、失敗がきくうちに一通りのことを何でも経験しておいたほうが良いと思いますね。
『そうですよね。
ところで、EDSとA.T.カーニーはグループだと思いますが、その関係で移った訳ではないのですか?』
それはね、違うんですよね。
A.T.カーニーはコンサルティング会社なので、独立性を保っておかないとクライアントに対する中立性やコンフィデンシャリティで問題がありますから、非常に独立性が高いというか全く独立した運営を行っていました。
僕が移った理由は、私をヘッドハンドしてくれた米国側のマネジメントチームが変わってしまったこともありますかね。EDSっていうのは新しいビジネスモデルを持って、20年間、フェノミナルグロース(phenomenal growth 驚くべき成長)を遂げてきて、利益率もアフタータックスで10%くらいある優良企業だったのですけれども、さすがに同業他社が参入してくるとそうもいかなくて、だんだん利益率が落ちていきました。そのため、最初にEDSがスピンオフした時のAlberthalというCEOが辞めてしまい、彼は僕が入った時のCEOだった人なんですが、次に来た人は、詳細は言わないけど僕の尊敬できる人ではなかったので、それでやめようと思いました。
でも、当時の日本のEDSは僕が中心になって一緒に作ってきたチームなので、完全に離れるわけにもいかない。それでラインとして独立しているけれど、なんとなくそばにいるようなA.T.カーニーに誘ってもらっていたので移りました。
『コンサルティングに5年振りぐらいに戻って、マッキンゼーと比べて何か見え方が違うとか、変わらないとかありましたか?』
基本的にコンサルティング業界は、ビジネスモデルはほとんど変わっていないしね。お客には、変われ変われと言っている割には非常に保守的なんだよね。(笑)こんなこと言っちゃっていいのかな。(笑)そういう意味で、大きく変わったところがある訳では無かったな。
コンサルティングっていうものは、完全にタレントっていうものに、完全にとは言い過ぎかもしれないけれど、大きく依存するビジネスなんですよね。タレントがそこにいる理由を見つけることで、オフィスができあがるっていう感じで、製品開発のプロセスと製造プロセスがあることによって始めて付加価値ができ、人間はそのラインの前にいます、という装置産業とは対極にある訳ですよね。
コンサルティングとはそもそもそういうものですから、A.T.カーニーは日本でちょうど当時大きく成長しようとしているところでしたので、僕がいた当時のマッキンゼーと比べてフェーズは違っているんだけれども、ビジネスのエッセンスが違う訳ではなく、形が違う訳でもない、フェーズは違うけれどもそれ自体はそんなに違っていない、というところがありますね。
むしろ、マッキンゼーにいてマッキンゼーを途中で辞めて、同じものを作るのはなんとなく申し訳ないという想いもありましたので、どう違ったものにするかというのが、なんとなく意識していましたね。
『安藤さん個人としては、経営を経験されてから復帰された訳ですが、ビジネスに対する自分の見方などが変わった、ということはありましたか?』
んー、そうだね、そんなにあるような気がしないかな・・・
昔から社長になることを一回何となく考えて、何か社長になるための準備していなくちゃいけないなと三菱重工の頃から思っていましたね。なので、最初にコンサルタントになった時は、コンサルタントだから何かというよりは、逆に自分がクライアントの経営者だったらどうなるだろうか、どうするだろうか、出来るだけその重圧を感じながら仕事をしようということを大きく意識していましたよね。このことは自分を育てる上で非常にプラスになったような気がします。
それでEDSにいた時は、自分が準備していたものを試してみたいという意識があって、随分色々なことをやらせていただきましたから、やったということ自体が自分にプラスになっていたでしょうね。
何かの意味での自信なのか、自分に対する安心感なのか、そういうものって時間とともに積みあがって行くものだから。それはたぶん、外に対する現れ方としては随分違うのでしょうけれど、人間というのは勝手な生き物だから、自分の中ではそんなに違ったような気がする訳ではないってことかな。私以外の人の方が、私の違いに気付いているのかも知れませんね。
イーソリューションズへのきっかけとこれから
『なるほど。ある程度やり尽くした感もあり、A.T.カーニーを卒業されて、イーソリューションズにジョインされたのは何か縁があってですか?』
そうですね。縁があって、イーソリューションズが大きく色々なことをやろうと思っていたところに、ですね。最初のきっかけはイーソリューションズでやっている再生医療のベンチャーですね。非常に社会的に意味があることがあるなぁと思ってね。その過程で僕が持っているものがここにプラスになるんじゃないかと思ってね。
『2年ほどイーソリューションズにいらして、今回またちょっと新たな行動をお考えということで、今後については、かなりやりつくされたといいますか、ビジネスの世界ではやりたいことはやり尽くされたんじゃないかと思うのですが・・・(笑)』
そんなことはないけれど、好き嫌いが激しくなったよね、たくさんやるとね。(笑)それはね、自分としては非常に幸せなことだと思っているんだけれども。
んー、どう言えば良いのかな。社長をやると社長ってそんなに楽しいだけのことじゃなくて、当たり前だけど、そこにどういうプレッシャーがあったりだとか、どういう楽しさがあったりだとかね。
社長とか代表者って決してタイプは一つだけではないですから、何が求められているのか、それから自分が自分の持っているものの何を強みとしていき、どういうチームを作ってやるのが良いだろうかとか、色々と感じるもの、考えるものがありますよね。
やってみて、良い部分、悪い部分、楽しめるもの、楽しめないもの・・・、って、色んな仕事に必ずあるけれど、そういうものがだんだん自分の中で見えてくるから、自分にとって「何がコンフォートゾーンなのか」っていうのが「自分は何がやれるのか」っていうこととは全く別に、もう一つあることっていうのが見えて来ますよね。
やり尽くしたということは無いけれど、自分の好き嫌いははっきりしてきたというのはありますね。
『だんだんコンフォートゾーンのほうにシフトしてきたと。』
そうそう。そのゾーン中心の仕事をどんどん作っていきたいなって。
『どういうゾーンが快適でしょうか?』
んー、快適なゾーンというのは、そうだなぁ、やっぱり一番インパクトを感じられるものかな。
そこに対して、雑多なものを抜きにして、クライアントにストレートに意味があることをやっていきたいね。それは色々なことがある訳ですよ、古い会社を変えるためにサポートすることもあれば、新しい会社を作るためにサポートすることもあるし、それは別に会社だけじゃなくて、社会的に意味のあることとかもあり得るんだけれども、何かを繰り返してやっている会社の中にいると、必ずしも自由度をもってそれをやる訳にはいかないじゃないですか。やっぱり抱えてきた型があるしね。でそれはそれで企業として非常に大事なことなんだけれども、私のコンフォートゾーンっていうことで言えば、そういう制約を抜きにして、色々なテーマに対して自分が意味の持てるものを選んで、そこに一番合った形で仕事をしていきたいなと思っています。
『安藤さんの活躍にますます目が離せませんね。』
あまり見てると目が散らかるから余り見てないほうが良いかもしれないですよ。(笑)
『ハハハ(笑)、でも否応無しに見えてくると思いますよ。(笑)
本日はとても参考になるお話しをありがとうございました。』
イーソリューションズ株式会社
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